【第41号】気仙沼旅行で思ったこと
気仙沼在住のSさんより房総沖から暖流に乗って三陸沖にやってくるフグを肴にワインを飲まないかとお招きを受けていたが、紆余曲折の末今回ようやく実現。これが今年の事実上の夏休みである。今回の気仙沼行きは震災の現場とその復興を確認する旅でもある。旅は霞の目の波分け神社の参拝から始まり、大川小学校の小高い集合場所と裏山の急坂な藪に寄り、三陸町ではさんさん商店街できらきら丼を食しながら震災遺構よりも高い小山のような堤防の建設現場を見た。様々な震災の舞台を車でまわりつつ気仙沼のアーク美術館に到着。
アーク美術館。船をイメージした建物はあたかも洪水のあとのノアの箱舟が山の上に乗っかっているように気仙沼湾を見下ろせる小高い丘の上にある。ここは震災前より津波の恐ろしさに警鐘を鳴らす展示を行っていたことで知られている。1965年以前は海岸線に石油タンクはなかったと。以後海岸線を埋め立て石油タンクが作られたわけだが、海岸線の埋め立て地は海に戻りたがっているという展示が印象的であった。Sさんが津波来襲の際とっさの判断で上がったという気仙沼市場の立体駐車場の上から気仙沼湾を眺めてみる。向こう岸の海岸線より少しあがったところに石油タンクが一個無傷で残っていた。カメイのタンクだという。海にもどりたがってない土地に作ったタンクは大丈夫だったという訳である。昔は多少不便でも津波のリスクを考慮し石油タンクは高いところに作られたが、その後は効率重視で海に戻りたがっている土地に石油タンクが作られて行った。そして海岸線に建設された石油タンクは津波で流され気仙沼湾は火の海となった。タンクは横の動きには耐えるように固定されていたが、縦方向には固定されておらず津波で石油タンクが浮いてしまったことも被害の拡大につながったと。
湾の入り口方向には大島や岬が見える。島や岬のおかげで湾内に入る津波の波高はかなり減弱したと。島や岬が和道流空手のいなしのような効果を発揮して津波の力は減弱されたという訳である。Sさんはこうも言った。あれだけの津波を堤防で食い止められるとは思えない。津波は一度湾内に引き込まないと食い止められないのではと。これは第二次ポエニ戦争で2倍のローマ軍を引き込んで取り囲みせん滅させたハンニバルのカンネーの戦いに通ずる考え方かなとも思った。港町に住む人間は津波のリスクは承知の上で海からの恩恵を得たいと思っているとSさん。しかし公の長たる村井知事は多少の犠牲は仕方がない・・・とは言えないのだろう。津波を小山のような巨大堤防という力で食い止める方向で県の津波対策は進められている。それはあたかも力を力でねじ伏せるフルコンタクト空手のようである。
日頃の自分の診療を振り返ってみる。経口摂取ができない寝たきりの高齢患者さん。感染症を繰り返すということは、体が腐敗の方向に傾き大地に帰りたがっているということなのかも知れない。それを抗生剤という力でなおそうとしている医師としての自分がいる。腐海に手を出してはならぬという風の谷のナウシカの一節が脳裏をよぎる。抗生剤の反復使用は多剤耐性菌発生という大津波に繋がる。末梢血の検査結果や培養の結果をみながら、漢方薬、アセトアミノフェン注射、AZ点眼薬やアズノール軟膏などの抗生剤、ステロイドフリーの治療で腐海の怒りがなんとかおさまってくれないかと祈らずにはいられない今日この頃である。
発行日:2017.07.18